分析して見つかる やりたいこと、見つからない やりたいこと

「こうすればやりたいことは見つかる!」みたいなことを

試したことがあるあなたも
試したことがないあなたも

こんにちは。

焼きそばの3つつながったソースを分ける時、袋を破ってソースが飛び散り杉田です。

1週間お疲れさまでした!

 

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あ、どうでしょう、みなさんは、やりたいことが見つからない時、

「こうすればやりたいことが見つかる!」

みたいなことを試したことってありますか?

きっと、ある方、ない方、どちらもいらっしゃると思うんですけど、

私、そういう「こうすればやりたいことが見つかる!」みたいな話にわりと否定的だったんですよ(笑)。

(そんな話はコチラからどうぞ)

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というのは、その1番の理由は、

「そもそも「やりたい」って、カラダの「感覚」なのに、
なんでそれをアタマで分析して見つけられるの?」

っていう疑問だったんです。

だって「感覚」を分析して見つけようとするって、

例えていうなら、これといって好きなミュージシャンがいない人に、

「過去にこういうタイプの曲が好きだったから・・・」とかアタマで分析させて、好きなミュージシャンを見つけるようなもんでしょ?

そういうやり方ってどうなんだろうって。ぜんぜんタイプの違うミュージシャンが両方大好きってこともありますもんね。

あ、そういえば最近、長年 趣味がなかった妻が、すごくのめり込むものを見つけたんですけど、

それって、事前に考えても ぜんぜん予想できないものだったし、妻がたまたまやってみたらハマったってものだったんですよね。

そんな感じで、私、「やりたいこと」って、「こうすれば」みたいなことをして分析するから見つかるってものではなく、

「ほぼ偶然で見つかるもの」だと思ってるんですよ。

なので、「こうすればやりたいことが見つかる!」なんて言って、ましてやそれをビジネスにしている人、よく言えたもんだなぁって、いつも思ってたんですよね(笑)。

(そんな話はコチラからどうぞ)

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さ、ということで、「こうすればやりたいことが見つかる!」みたいな話に否定的だった私ですが、最近、

「ん?「こうすればやりたいことが見つかる!」って言ってる人って、もしかしてオレが思う「やりたいこと」とは違う意味で言ってるのかな?
そうだとしたら、「こうすればやりたいことが見つかる」って言えるかも」

って思うことがあったんですよ。

これどういうことだったかというと、私、ちょっと前に友人と飲んでた時、

「杉ちゃんは、人生に対して期待が高いよ」

って言われたんですね。で、友人は続けて、

「でも杉ちゃんは、人生で本当に楽しいことがあったんだろうね。だから期待しちゃう。
オレはそこまで「楽しい」って経験がなかったから、淡々としてられるのかも」

って言ったんです。

で、そう言われて、

「たしかにオレ、人より「人生は楽しくなる」って期待が高い気がするな」

って思って、いろいろ考えてみたんですけど、

「ワーホリでカナダに行った時から、人生に対しての期待が高くなった気がするかも」

って思ったんです。

あ、このカナダでのワーホリのことは、このブログの過去記事で何度もお話してるんですけど、

カナダでは、それまでの人生で感じていた「楽しい」をはるかに上回る楽しい体験が連続したので、

「こういうのが、「楽しい」とか「やりたいことをする」ってことなんだ!
今までこういう感覚を知らなかった。
今まで自分が「楽しい」とか「やりたい」と思ってたことって、なんだったんだ?」

って思ったんですよね。

で、それ以来、私の中で「楽しい」とか「やりたいことをする」ってことへの期待が上がってしまったんでしょう。このレベルまでこないと、そうは言えないって。

なので私にとって、カナダに行く前と後の「やりたい」って感覚って、ぜんぜん違うものなんですよ。

そんな例を挙げますと、私、大学は、付属高校から内部推薦で進学したんですけど、

学部を選ぶ時、学ぶ内容への興味や、将来のことを考えて、「社会学部」を選んだんですね。

なので当時の私は、「社会学部に行きたい」って自覚してたし、
人から「どうしたい?」と聞かれてもそう答えていたし、
そのことになんの疑問もなかったんですけど、

今にして思うと、当時の私の「社会学部に行きたい」って、めちゃくちゃ薄い「やりたい」って気持ちだったと思うんですよ。

純粋に「社会学部に行きたい」って気持ちも少しはあったけど、それよりも、

「大学は行っておいたほうがいいから、だったら社会学部でいいか」

みたいなニュアンスが強かったと思うんですね。だいぶ「損得」が入った判断

でも当時の私は、それぐらいの薄い「やりたい」を、「やりたいこと」だと思うのが当たり前だったので、なんの疑問もなかったわけです。

なので、私にとって、

(カナダ前の)高校時代の私が言う「社会学部に行きたい」
(カナダ後の)今の私が言う「心理セラピストとして活動したい」

って、同じ「やりたい」でも、ぜんぜん感覚が違うんですよ。

あ、でも思い出してみると、高校時代の私も、純粋な「やりたい」って感覚がなかったわけではなくて、

当時の私は、映画を観たり、音楽を聴いたりするのが大好きだったんですね。

なので、もし当時の私に、誰かが、

「映画観たい、音楽聴きたい、と同じように、社会学部に行きたいって思ってる?」

って聞いてきたら、「エッ!?」って固まってしまったと思うんです。

当時の私は、無意識に、

進路の「やりたい」と、プライベートの「やりたい」は別物

って分けて考えていて、

進路の「やりたい」と、プライベートの「やりたい」が同じ土俵に乗っていなかったんですよ。

進路の「やりたい」は、そんなに高揚感がなくて当然で、
プライベートの「やりたい」と同じものでない、

と知らないうちに思ってた。

でも今の私は、「やりたい」と思う対象って、なにがなってもおかしくなくて、

進路や仕事だろうが、プライベートだろうが、すべて同じ土俵に乗ってる感覚はあるんですよ。

なので、もう進路や仕事の「やりたい」が、プライベートやその他の「やりたい」と別物には思えないんです。

「やりたい」に境界線はない。

 

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あ、で、なんか話がたいぶそれてしまいましたが、私の友人が、

「でも杉ちゃんは、人生で本当に楽しいことがあったんだろうね。だから期待しちゃう。
オレはそこまで「楽しい」って経験がなかったから、淡々としてられるのかも」

って言ったのは、

「楽しいっていう感覚を知ってるか、知らないかで違う」

ってことを言いたかったんだと思うんですけど、

もちろん私は、その友人が本当に楽しいことがなかった人とは思ってないし、
ましてや友人と私のどちらが楽しかったなんて比較できないですけど、

ただ「自分自身のことは比較できる」わけで、

私がカナダに行く前と後では、明らかに「楽しい」とか、「やりたいことをやる」って感覚が違うのはわかるし、

もし私がカナダに行かなかったら、もしかしたら「社会学部に行きたい」みたいな感覚を、今もふつうに「やりたいこと」だと思っていたかもしれないって思ったんですよね。

で、結論として思ったのは、そういう「社会学部に行きたい」みたいな、

純粋なカラダが欲する「やりたい」だけではなくて、
損得も含んだ、混じり気のある「やりたい」だったら、

「こうすればやりたいことは見つかる!」みたいなことや、
自己分析で見つかるんじゃないかって思ったんですよ。

実際、私、自己分析して、社会学部を選びましたから。

でも、今の私の「心理セラピストとして活動したい」だったり、
高校時代の私の「映画観たい」、「音楽聴きたい」みたいな、

純粋なカラダが欲する、混じり気のない「やりたい」は、

「こうすればやりたいことは見つかる!」みたいなことをしたり、
自己分析しても、見つかりづらいんじゃないかと思ったんですよね。

要は、同じ「やりたいこと」でも、やりたい度の低い「やりたいこと」なら、分析で見つかるんじゃないかって。

あ、そういえば、私、ずっと就職活動の時にする「自己分析」に違和感があったんですよ。

「そんなんで(純粋にカラダが欲する)やりたいことが見つかるわけねーよ!」って(笑)。

でも、「損得も含んだ やりたい」なら見つけらるかもなって、今なら思えるんですよ。

そういうのが、私が、

「ん?「こうすればやりたいことが見つかる!」って言ってる人って、もしかしてオレが思う「やりたいこと」とは違う意味で言ってるのかな?
そうだとしたら、「こうすればやりたいことが見つかる」って言えるかも」

って思ったってことの意味なんです。

となると、「やりたいこと」を見つける時って、自分が、

① 損得も含んだ「やりたい」 (例 社会学部に行きたい)
② 純粋にカラダが欲する「やりたい」(例 心理セラピストとして活動したい)

のどちらの「やりたい」を見つけたいのか、わかっておく必要がありそうですね。

でもそうなると、② 純粋にカラダが欲する「やりたい」を見つけたい人は、

自己分析で見つける、① 損得も含んだ「やりたい」では、なかなか納得しないと思うんだよなぁ。

となると、

「進路・仕事」の「やりたい」と、プライベートの「やりたい」は別物

って思って疑いのない人や、

「やりたいこと」をしてる時の高揚感を知らない人のほうが、

もしかしたら器用に生きられるかもしれないなぁって。

だって、そんなに楽しくない仕事をしたとしても、「こんなもんだ」って淡々とやれますもんね(笑)。

でも、「やりたいこと」をしている時の高揚感や、
「やりたいに境界線はない」ってことを知ってしまった私は、

もうそこには戻れないんですけど(笑)。

 

それでは今回はココまでにします。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
また次回お会いしましょう!

杉田 隆史