「仕事場であたふたしてしまう」という悩み

個人セッション(心理セラピー)体験者の声

「仕事場であたふたしてしまう」

と悩んでおられたクライントさんから、
個人セッション(心理セラピー)の後にいただいた感想です。

(ご本人の許可をいただいて掲載しております)

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杉田さんのセラピーを受けた後に、

流入してきた気づきを箇条書きしてみました。

■日常における変化

母親の呪縛が抜けてから、堂々とハキハキ話すようになった。

自分でも驚くぐらいに。冗談も言えたり。

もし普通に育てられてたら、俺はこんな人だったんだ…と。

仕事でも、提案・代案を出せるようになった。

「自分の考え」が湧いてくるようになった。

 

■可能世界への好奇心

AとBの選択肢があった場合、Aを選んだ時点で、

Bを選択した後に展開する可能世界は切り捨てることになる。

逆もまたしかり。

今までは、不安を回避する気持ちからAばかり選択してきたが、

Bを選択した後に展開される世界を覗いてみたい。

という好奇心が芽生えてきた。

Aの世界は今までさんざん体験してきた。

これからは、未知の世界Bを体験してみたい。と。

そう思えるようになったのも、杉田さんのセラピーを体験して、

「傷は永遠ではない。癒せば、そこで完了させられる」

事実を実感したからだと思う。

これは自分にとって、相当に大きな肯定的体験となった。

傷ついたり怒ったりしても、

それらを「ただの現象」として通過させられるようになった。

 

■癒しの段階

傷が癒されることと、傷の存在を意識の監視下に置くことは異なる。

癒しの工程には、

(1)傷ついており、その感情に飲まれている段階。

(2)傷は未解決だが、その感情を意識の監視下に置いている段階。

(3)傷を解決した段階。

…という、3つの段階がありそうだ。

僕の母親由来の傷は、99%は3で、残りの1%はまだ2の段階だろうか。

兄由来の傷は、2の段階にある。最終工程3に行くには、

いったん1まで降りる必要がある。

セラピーでは意図的に、それをやっているのかなと。

結局、いくら気づきのデータを収集しても、

それらを手がかりにして原初の傷を特定し(工程1)、

最終的に「癒す」(工程3)ことなしには、

ただ「知識が溜まっていくだけ」なんだよな。

俺は、工程2で踏ん張り続けてきた。およそ15年も。

気づきの作業を続けていれば、いつか昇華されるだろう、

と信じてやってきたが、そうした淡い希望的観測も、

杉田さんのセラピーの「体験の威力」であっさり吹き飛ばされた。

でも、セラピーにおいて1の作業を効率良く進めることにおいては、

長年2で蓄積した情報は、とても役に立っていると思う。

 

■投影について

目の前の人に怒らなくなった。

ああ、自分はこの人に「親」を投影しているんだな。

という視点が芽生えた。

目の前の人と和解することは、

その人との関係を良好にする点においては意味がある。

が、それ「だけ」では、根本的な解決にならない。

目の前に投影している「誰か」と和解しない限り、

また別の人との関係で、同じパターンを繰り返す。

 

■理論武装のトリガー

理論武装が始まった時は、注意せよ(と、自分に言い聞かせている)。

理論武装が始まるトリガーは、ハートのあたりにくる違和感である。

その違和感が、すべてを物語っている(正ネガで言う「大人は論理で怒る」)。

 

■観察者の自己=本当の自分であるという錯覚

日常のある場面で傷ついたり、怒ったりしても、

もちろん感情が揺れることは揺れるのだが、

意識は「自分を知るデータが取れた」と喜んでいる。

意識は、俺自身の体力を顧みずにそれをやってくれるから、

正直、しんどいものがある。

この気づきの意識である「観察者の自己」もまた、エゴである。

そのエゴとは、「すべてのエゴを意識の監視下に置くことで、

不安に飲まれないようにがんばる」エゴである。

観察者の自己は「自分を切り離す」意識だが、

それら自己群を総覧する自己は「これは自分ではないと気づきながら、

自分と一体化する」意識である。

自分とは「無色透明の存在」であり、どの自己意識に接続するかは、

自分の選択によるものである。

一般に人は、無自覚に接続した「傷ついた自己」を指して

「これが自分である」と思ってしまっている。

俺の場合は、この15年ほど「観察者の自己」こそが

本当の自分であると思っていたが、それもまた違った。

観察者の自己もまた、ひとつのエゴである。

「観察者の自己」に乗っ取られている時は、

自分が今まで気づかなかったエゴを発見するのが楽しくて仕方ない。

あたかも、新種の昆虫を発見した時のような喜びがある。

自分の感情の動きに、つねに意識的であろうとする「しんどい努力」が、

「自分は正しいことをやっているのだ」という錯覚を生んでいる。

努力することは立派だ、の思い込み。

それが、「観察する意識自体もエゴに支配されている」

という事実を見えにくくしている。

「英語学習における音読は、ある段階にいる人にとっては、

実はそれほど意味がない場合もある。

なぜ世間では音読ブームが無条件に支持されているのかというと、

音読にともなう軽いしんどさが「自分はこれだけ頑張った」という満足感につながり、

自分は正しい勉強をしている、という錯覚に繋がっているのではないか」という、

ある英語通訳者の話を思い出した。

 

■個別性の捨象

個人の個別性を捨象している点において、

精神世界や心理系の本は、「あなた」や「わたし」の実用性には乏しいことが多い。

それよりも、夢や無意識、周りの人との関わりにおいて発生する感情のほうが、

はるかに濃い学びが多い気がする。

友人や杉田さんからのフィードバックを聞くたびに、

そんなこと、どこの本にも書いてないよ!といつも驚く。

(あ、「正しく悩む技術」はいい本ですよ!正ネガからは、本当に多くのことを学んだ。)

 

■無意識の言葉の翻訳ミス

杉田さんのセラピーを受けた数時間後、

心に、モヤモヤしたものの存在をうっすらと検知した。

最初、俺は、「セラピーで生じた変化が、元に戻るのでは…」

という不安だと認識していた。

実は、そうではなかった。

母親へのわだかまりが、まだうっすらと残っていたのだ。

じつは俺の中には、「母親問題は完全に解決した」と思いたい気持ちがあった。

そうでなくては困る、と。

だから、「うっすらとしたモヤモヤ」の正体である
「問題はまだ解決していない」という事実から目を逸らすために、

「母親とのことは、セラピーで完全に解決した」というダミーの前提を、

無自覚に措定していた。

本当は、このモヤモヤは「完全に解決されてないよ」

と翻訳するのが正解だった。

 

■慢心エゴの存在

今の自分には、慢心のエゴが存在する。

それは、「ここまで気づいた俺ってスゲーだろ!」という慢心である。

だから、自分より気づきの能力が高い(と自分が想像した)人の文章を読むと、

ページを閉じたくなる。

これは「誰」を投影しているのだろうか。

今は分からないし、考えても答えは出ないだろうので、

メモだけに留めておく。

本当は、人同士の気づきの能力に高低は無く、互いに補完しあい、

時に重なりあう関係なのではないか。うっすらとだが、そう思う。

 

■ネットゲームについて

友人とFFの話をしていた。

俺は、「ネトゲの世界とは、この現実世界というマトリクスから抜けだして、

外側から俯瞰する視点を疑似体験する意味もあるのではないか。

ネトゲにはまる人は、我々の現実世界でいうと、

この現実(マトリクス)を幻想だと見抜けずに、

仮想現実に耽溺する人と言えるのではないか」と思った。

 

■自己観察は体力勝負である

こうして意識が保っていられるのも、

単に俺の持ち前の体力があるから、だと思う。

過負荷になりそうな感情がきたら、意図して「傷ついた自己」に接続し、

どこかで感情を解放する必要がある。

自己観察は体力勝負。それだけな気がする。

もし俺が、いわゆる人生の王道を歩んできたような人間であれば、

ここまで「考察する体力と洞察力」は身につかなかっただろう。

そこは母親の過干渉に鍛えられた(感謝はまったく無いが)。

俺は、俺の無意識は、まだ相当に傷ついている。

つくづく、そう感じる。感情の動きを拾うのが追いつかないほど、

日常の出来事で、感情が揺れまくってるのだ…。

しかし、そろそろ泣きたい。

俺には、時には「甘い母性愛」も必要だと思う。

 

■コマネチ

今、俺はなんでもできそうな気がしている。

が、現実には気後れしてしまうことも、沢山あるだろうな。

例えば職場で、みんなが黙々と仕事をして、シーンとなっている時に、

みんなの前で

コマネチ!

とやるのは、今の俺には絶対にできない。

ひとつの内的束縛である。この内的束縛を超えているエガちゃんは、

本当にすごいと思う。

でも俺、正直、別にコマネチやりたいと思わないんだよな(笑)。

何でもかんでも内的束縛を超えりゃいい、ってもんでもないなと。

まあ、内的束縛を超えるドリルとして、

そういうやり方もあるかもしれないけどね。

「自由」の限度と内的束縛」

 

■以上を経てたどり着いた、現在の認識

・「傷つき慣れ」した。

人が「傷つきたくない」と思うのは、傷ついた瞬間に生じる

心の痛みを問題視しているのではなくて、

心の痛みから派生する「想像上の不安」が、

「傷ついた」という事実をドラマ化している。

ドラマにとらわれてしまうこと、それが問題なのだ。

・傷つくことは、ただの現象である。

・傷を癒すこと。それにともなう歓喜。

それ自体は目覚めに伴う副産物であるが、それが人生の目的ではない。

身軽になった自分を使って、「何をするか」だ。

その「何か」は、今は分からないが。今は、そんな予感だけがある。

・傷を癒すこと。

それは、今後の「何か」を成すために、

手持ちのウェイトを減らしておくための手段である。

高い山に挑戦するのに、なるべく装備の重量を軽くしておくようなもの。

・傷つきやすい人。

それは、今後のウェイト増加に耐えるために、

わざと高い負荷をかけて筋トレしているようなもの。

傷つきやすい人、自己愛の強い人、盗んだバイクで走りだせなかった人たちは、

いわゆる「人生の王道」を歩んできた人たちとは比べ物にならないぐらい、

ポテンシャルが相当アップしているように思う。

セラピーによってウェイトが解除された瞬間、

自分が相当、鍛えられて身軽になっていることに気づくだろう

(なんかエラそうですみません…)。

・無意識メッセージの翻訳ミスについて。

正ネガは、「無意識からのメッセージを正しく解釈するヒント」的な

側面もあるのかな~と思いました。

 

こういった積極的に言語化して、「気づき」を得ようとする姿勢はスバラシーです。

セラピーは、「行っておとなしくいれば、セラピストが何とかしてくれる」というものではありません。

「自分で自分を救おうとする人」に変化が現れます。

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