「頑張りすぎることがやめられない」という悩み

個人セッション(心理セラピー)体験者の声

「頑張りすぎることがやめられない」

と悩んでおられたクライントさんから、
個人セッション(心理セラピー)の後にいただいた感想です。

(ご本人の許可をいただいて掲載しております)

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杉田さん

こんにちは、◯◯です。
先日は大変ありがとうございました。
先に申し上げますが、長文を大変失礼します。。m(__)m

前回のセラピーでは中学時代のいじめを扱っていただくなかで、

その後、仕事でも自分の言いたいことをはっきり言う、率直に言う、NOを言えるような様々な変化が起きていまして、

おかげさまで、かなり生きやすくなった感覚があったのですが、
それでも日々過ごす中で、まだ何かギアがギチギチいってうまく回らない感覚があり、

生活自体もあまり楽しくない、幸せに思えず、何かしらの強制力が働いている感じがあったので、もう1回と思って杉田さんのセラピーを申し込んだ次第です。

昔っから「頑張りすぎてしまう自分」があり、
それはADHDの衝動性や不注意・多動性など先天的な部分と、

心が何か欠けている感覚、自分の存在が何かうすら寒く感じるような自己肯定感のなさといった後天的な部分と、

両方のエンジンによってその頑張りすぎてしまう自分の歯車がまわっている・・・とは何となく認識はしていたのですが、

おそらくその歯車がもうすり減ったり、モーター部分も限界に来ていたんでしょうね、

杉田さんから「自分がラクになることを考えたらどうか」と言われ、

正直「え、そんなこと・・!?」と思いつつ、それを言われてからすごく肩の力が抜けたと言いますか・・・・。

今まで楽しくしよう、幸せに生きたいと思うと、もっと「頑張る」といった足し算とかけ算になりがちで、

ともすればラク=怠惰というイメージで自己成長できなくなるような怖さも感じていた私ですが、

初めて人生のなかで「ラクなほうを選ぼう」という引き算の価値基準がようやくインストールされ始めました。

そして何よりも母親との関係性に悩んでいた私は「母のようになりたくない/しないように」という思いが強く、

常に子供に対して母のようにならないようにと逆張りの気持ちで子育てをしていたのですが、

これも杉田さんから「親のようにならないようにと思っている人はすでにその親になっている」と言われ、

最初は「そんなことない・・!」とちょっと受け止めきれなかったのですが(笑)、

帰り道にふと、ヤングケアラ―だった母親も負の連鎖を止めるべく子育てしてきた、的なことを言っていて、
それって今の私と残念ながらそっくりだなと(笑)

そこからさらに思い出したのが義母でして。義母は本当に明るい人で、自分の人生をいつも楽しんでいる人です。

その義母に育てられた夫や夫の兄弟は天然の自己肯定感を持っている感じでして、

自分の家にはなかった圧倒的な家庭の温かさを感じて、結婚した当初は「こんな理想みたいな家庭あるんだ・・!」と10歳以降、ほとんど温かさがなかった自分の家族とのギャップに衝撃すぎて思わず義母の前で泣いてしまったなぁ・・・

・・・などと色々と振り返るなかで、「母親みたいにならないように」というスタート地点ではなく、

「自分がラクだと思う形で子育てをする」と義母を見習ったスタート地点に変えていくことで、見える景色が変わったように思います。
(私と夫の間では、うちの母親と義母とを”陰と陽”で例えている感じでして、義母という1つの陽のベンチマークがいるところは非常に有難く感じています。)

その例が昨日のことでして。昨日は旦那がいなかったのでワンオペで子供を見なきゃだったところ、何だか疲れていました。

いつもだったら子供が生まれてからずっと自分の時間を好きなように取れない焦りや窮屈さに縛られ、

そうした時間に追われる子育ても疲れの要因と考え、「子供を預けて自由時間で休もう(休まなきゃ)・・・!」となって、

結局なんだか居心地悪く過ごしてあまり疲れが取れない感じになってしまうのですが、
たまたま珍しく子どもが保育園行きたくないと言ったこともあり、

子供と一緒に自然があるところにいってのんびりすごすことをしてみたい、そのほうが楽しいかもと思って、

初めて?、風邪でもないけど保育園を休んで、子供と過ごす1日を選択しました。
かつそこでなんと昼食と夕食と2回とも外食へ(笑)

今までだったら1回外食したらどっちかは家で食べる(食べなきゃ)と思っていたのですが、

もう料理を全然したくなかったので、初めて2回とも子供と外食することを選択できました。

おかげで義務感や責任感なく、目の前の愛しい子供と向き合い、時間がこんなにも遅く感じ(沖縄みたい)
心も満たされた、楽しい1日を過ごせた気がします。

また、もう1つとても大事だったのが杉田さんに “うすら寒く感じる感覚”を肯定していただけたことでした。

3つ上の仲良かった兄が反抗期を境にほとんど会話がなくなり関係性が長年なくなったこと、

中学校でいじめられてハブられたこと、
大学でも1つ、大事なものを失った経験、
母親からの無言の圧力と競争社会、

・・・などからどうしても埋まらない不安感、寂しさ、欠落感が心にあります。

がんばりすぎるのも↑のような背景があるなかで、完璧主義的な性質もあることからどうしてもこの穴を埋めたくなっていました。

でも、だからこそ社会課題領域に人並み以上の力を注げていたこともあり、「◯◯さんの感じるうすら寒さは大事なのではないか」と言っていただけたことで

「そうだよ、この穴があるからこそここまで頑張れたし、今の積み重ねてきた自分があるじゃん」と思え、

そこから「自己愛が傷ついたまま、穴があるままで生きてていいんだ」と、その穴も自分の一部として見えるようになった気がします。

それ以外にも、こうした一連の気づきを通じて、大事にしてきたものを失くした経験が複数回あることから、失ったら困るような大事なものをつくりたくない、

という予防的な気持ちも(前々からうすうす気づいていましたが)感覚的にはっきりと自覚しました。

なので、自分から明るい・温かい家庭を作ること自体にも少し抵抗感があったようにも思います。

ちなみに帰りの電車で●●の診断をしたら、やはり▲▲でした(笑)

つらつらとすみません。。

まとめますと、

・楽しい・幸せだけじゃなく、ラクである、という価値基準を追加できたこと(状況次第で基準も選べそうになる予感がしていること)、

・ずっとつきまとっていた母親の逆張りの疲労感から解放されたこと、

・またうすら寒い自分の欠落感も自分の一部として認められたこと、

これらは本当に杉田さんのおかげです。

ギアチェンジなど抜本的な変化をついつい求めがちでしたが、おそらくギアは今のままでよくて、

アクセルやブレーキの緩急をつける機能(アクセルは衝動性でやや壊れがちですが(笑))、

ラクであるという基準も搭載されて道を示してくれるカーナビなど、必要だったOSのアップデートができたように思います。

失う怖さもまだありますが、関係性が途切れるものだけでなく、命ある生きものはいずれ存在を失う宿命にあり、悩めることではないですもんね。

だからこそ、何かあったら率直にお互いわかりあえるまで話し合う、わかりあえなくても尊重し合う関係性が作れるように努力し続けられたらと思いますし、

自分らしい、ラクで楽しく生きる母親の背中を娘に見せて、”今”の子供との時間やに精一杯愛情を注いでいけたらと思います。

2回分の御礼もしたく、ものすごく長文となりましたことお許しください。。

本当にありがとうございました。催眠のセラピーを申込みしようか迷っているので、また次にお会いする際にはどうぞよろしくお願いします!(笑)

寒暖差が激しい日々が続いておりますので、くれぐれもお風邪などひかれぬよう、どうぞご自愛してお過ごしください。

 

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個人セッションをしていると、頑張りすぎることで悩んでいる方ってたくさんお会いするんですけど、

そういう方が、頑張るのを緩めるのって、意外と大変なんですよ。

というのは、これまでの人生で、頑張ってきたことによって、たくさんものを得ているからなんですね。

なので、「頑張る」と手放すと、すべて失ってしまうような気がする。だから「頑張る」を手放すのが怖い。

でも人は、前はスキだったアーチストが、なんのキッカケもないのにスキでなくなることがあるように、

時間が経つにつれて、自覚はないけど、自分が変わっていくことってあるんですよね。

なので、これまで頑張ってきた方が、そのことで悩むようになるということは、

いつの間にか自分が変わってきていて、もう今は、頑張ることにそこまでメリットを感じなくなってきているからなんですよ。

なので、頑張りすぎている方が、そのことを悩むようになったタイミングというのは、

自分の内側から「もうそこまで頑張っても、良いことないよ」って自分の内側からノックされてる状態であり、

それはある意味、自分を整える最大のチャンスともいえると思います。

個人セッションでは、その方の特性を見極めながら、頑張りを緩めるサポートをしています。

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